ジオラマから切支丹

                
近所の城。 
近所すぎて普段眼中に無いのですが、あらためてよく見ると紅葉が非常に美しかった。
ていうか、ネットの知人が来たときに案内するお約束コースと化している今日この頃。
それまで、幼い頃に1回?くらいしか中に入った事なかったつうのに、ここ数年で5回くらいは入城しとるな。
つうわけで、昨年の2月以来ですが、中のジオラマが微妙に追加されていた!
                
昨年は確実に無かった、巌流島の戦い発見(・∀・)!
って、小倉城に剣術指南役で勤めていた佐々木小次郎負けてるし・・・化けて出ない?大丈夫?;w
余談ですが、剣の達人の小次郎が木刀で叩きのめされて?死んだ・・・と知った時は衝撃だったな(汗;
                
ちなみにコレは、以前にもご紹介した城内にて作戦会議中の殿様&家臣の怪しい蝋人形なんですが、実は一番手前にいる
人物は、宮本武蔵の養子の宮本伊織だそうです。 
解説によると、まだ20代前半?の青年だそうですが・・・おっさんにしか見えん;
ってあれ? 佐々木小次郎が仕えていた城に、武蔵の養子?? なんで? ちょっと混乱してきたんで、あとで調べてみよ。


                
                     遠山の金さん的な物発見(・∀・)



                
そして前回、どうしても見つけられなかったガラシャ夫人のミサ@葬送の列。 あっけなく発見!
ていうか、これも以前よりグレードアップした構成になっている気がする。 教会とか無かったと思うし。
それで気づいた。 城から1キロ弱のところに、森鴎外も通ったというカトリック教会がある。
結構歴史古そうな?と思っていたのですが、ガラシャ夫人の時代からあったのか!?と。
で、昨日偶然その教会の前を通りかかったので見てみると・・・とりあえず、クリスマス仕様になっていた。


で、横にあった教会の成り立ち的な看板をざっとまとめますと・・・



ディエゴ加賀山隼人正興殉教(? 


1602年、ガラシャの夫である細川忠興が入城。
この頃、豊前の国では宣教師たちによる布教が盛んで、その数二千〜二千七百人もの人達が洗礼を受けキリシタンに。
忠興は、ガラシャ夫人の事もあり、キリスト教に同情的・保護の政策をとっていたが、しかし秀吉・家康の切支丹製作の関係か、
自身がキリスト教に帰依することは無かった。 



しかし、忠興の家臣にも切支丹の武将が800人以上。
その一人、忠興の重臣の一人・加賀山隼人が10歳で洗礼を受けた筋金入りの切支丹。
宣教師グレゴリオ・デ・セスペデス神父と共に布教につとめ、城下町に教会・集会所を作り、信仰の基礎的存在となった。
彼の信仰と英知は全国の武将達の間でも広く認められた。



が、その後、徳川幕府によるキリスト教弾圧強化により、改宗を迫られるも拒否したため、
1619年10月15日、54歳で処刑。 嘆き悲しむ妻と娘に、
『今日は私にとって一生で最も歓喜をもって祝うべき日だから、
悲しむのではなく、共に祝ってくれ』 
 
と諭した。
という訳で、右上の石碑の中央の人物が隼人で、小船で刑場についた際、最後に改宗を求める衛士に
自分の信仰の意義を諭す隼人を描いた物・・・だそうです。 


むーん。 やはり、ガラシャ夫人の時代から続く教会と見て正しいようですな。
以前から石碑も見た事あったのですが、そんな経緯があったとは夢にも思わず・・・
うー。なんと切ない。 人が人の信仰・心をねじ伏せようとする事が、なんと愚かな
ことか・・・と再認識させられます。
と、ジオラマから思いがけず歴史やら、キリスト教やら学んだ日。