追記

原爆投下が、曇っていたから変更というのは知っていましたが、こういう状況だったんですね。
祖母も、母も、父も、叔父も、叔母も、この日の朝、どんな生活をしていたのだろう。
・・・運命の分かれ道の凄さに言葉も無い。





1945年8月9日。
先行していたエノラ・ゲイからは小倉市(現北九州市)は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市
朝靄がかかっており曇っているが、雲は10分の2であるとの報告があった。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで
上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。
40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行する事にした。



午前9時40分、大分県姫島方面から小倉の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。
しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する。
その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して繰り返すものの再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分。



この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。
その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなりまた、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の
零式艦上戦闘機零戦)10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、
小倉市上空を離脱した。


転勤で、中学生で長崎に転校した甥っ子。
転校初日、学校からの要注意伝達事項。 『絶対に、外で立小便をしてはいけない』。

原爆による無数の遺体を埋葬できないまま、そのまま埋め立てたので街全体が墓場と考えろ!と言うことですね。
万が一、立小便の現場を当時を知るご老人に見つかったりしたら、とっ捕まってただではすまないような説教をくらうとの事。
基本、長崎以外でも立小便するような奴はロクなもんじゃない訳ですが、緊張感を持って接しないといけない空気が確かに長崎に
あるのは感じます。(広島含)